book「自然を名付ける〜なぜ生物分類では直感と科学が衝突するのか」

By siki, 2021年1月3日

世界には驚くほど多様な生き物が、はかり知れないほど存在している。それに人間はひとつひとつ名前をつけて、表面的な外見の似た者同士や特徴をとらえてカテゴライズしてきた。生き物を知ることは、まず第一に人間が生きていくために必要であり、「この世界に碇を下ろすこと」でもあった。名前をつけて似た者をグルーピングしていくという行為は人間にとって、自然で、理解しやすくなじみ深いやり方であり、著者はそのような世界観を人間の『環世界センス』という概念でとらえる。この本では『環世界センス』を軸に、分類の歴史をひもといていく。

さて、世界に名だたる分類学の父と言えば、スウェーデンのリンネである。
時はヨーロッパの大航海時代、未知の世界から持ち込まれた珍しい植物や動物に多くの人々が魅了されていた。ただその一方で、だれも適切にカテゴライズできずに、とにかく新たな動植物がどんどん発見されていくような状況だったらしい。
そのような中、リンネは類い稀なる才能を発揮して生き物を整理したという。1735年、彼は28歳の若さで、『自然の体系』を出版した。彼は動物界、植物界、鉱物界から始まって、その下に、門→網→目→科→属→種に至る階層をつくり体系化した。彼は生涯で7,700種の植物と4,400種の動物を分類したという、分類の天才である。(そして、かなりのうぬぼれ屋だったらしい。)
リンネの分類は、表面的な外見の似た者同士や特徴をとらえてカテゴライズするという『環世界センス』の延長上の方法で行われたものであり、私たちの感覚にとてもなじんだものであった。
彼は生き物の名前の付け方のルールもつくったが、これもまた私たちの『環世界センス』に沿った覚えやすく自然な付け方なのだそうだ。それは、種の名前は属+種という並びで表記する(ラテン語で)というものである。私たちは単なる番号では覚えられないのだ。その名付け方は『二名法』と呼ばれ、現在『学名』として世界共通のルールとなっている。

時は流れ、ヨーロッパ人による世界進出が加熱していく時代。リンネの『自然の体系』からおよそ100年後の1831年、かの有名なチャールズ・ダーウィンがビーグル号で航海し、日本にはシーボルトがやってきた。
1859年、ダーウィンが『種の起原』を発表。ダーウィンは今では当たり前となっている『進化』という概念を発見し、種は変わり続けるという、キリスト教をも揺るがす考え方を世に出した。『進化』という考え方をもとに生物界を理解すること、人間の時間軸のスケールや人間が肉眼で見えるスケールを大きく超えて、『地球の生物の歴史』という基準に照らして、理解し分類しなければならないことを提示した。しかしそれは苦難の道であり、その歩みは一筋縄では行かなかった。なぜなら人間の知覚を大きく超えたものだから。

その後いろいろな試行錯誤や論争が続くが、『種の起源』からおよそ100年後、分子生物学が登場する。すべての生物の生命の根元を分子レベル(遺伝子・DNAレベル)で研究するのが分子生物学である。DNAの塩基配列の変化を読み取ることにより、生物の進化の系統を明らかにしていくことができる。これこそがダーウィン以来、生物学が求めた『地球の生物の歴史』という基準による分類方法であった。

しかし同時に、これは人間が培ってきた『環世界センス』を手放さなければならない決定的なパラダイムシフトでもあった、と著者は言う。なぜなら分子生物学による分類は、フィールドではなく、実験室の中でしかわからないことだから…
そして、「魚類なんてカテゴリーは存在しない」とか「鳥類は恐竜である」とか、今までの『環世界センス』を覆されるような報告がなされていくことになる。それは人々にとってどんなに衝撃的なことだっただろう。

1980年代、欧米のアカデミックな世界では、今までの伝統的分類学者と新しい分子生物学者たちの激しい議論が繰り広げられたそうだ。この本にはその大論争のこぼれ話として、若い分子生物学者たちが、大変過激で生意気な態度で伝統的分類学者たちをバカにしていたようすを報告している。なんともまあ…、かなりひどかったようである。

時代はまた少し進み、現在、分子生物学による分類はすでに主流になりつつあるというところである。
植物の分野でいえば、これに従った分類はAPG体系と呼ばれ、2010年の改定でだいたい落ち着いたようである。近年出版される図鑑はこの配列にしたがっている。
科によっては大きな変化があった。例えば、慣れ親しんだユリ科という科がなくなりその代わりに、ススキノキ科とかクサスギカズラ科とか、なじみのない科名に分かれた。寂しいけれど(それに覚えるのも大変だし、混在するのも不便だし)、そういう歴史的な変わり目にいることはおもしろいことなのかもしれない、と思えるようになった。

本を読み終えて、私たちが自然を理解するために歩んできた、遥かなる分類の歴史に思いを馳せてみる。私にとって、分類とはただ科や種名を覚えることだったけれど、そこに人間の豊かな歴史を感じられるようになった。同時に、生物の進化の歴史、それを解明しようとしている人間の歴史に比べたら、私の人生はなんと短いことだろう!ということも。

著者は最終章で自分の考えを述べている。
アカデミックな世界で新たな分類学が構築されていく一方で、生き物の世界が『環世界センス』からどんどん遠ざかった結果、生物はすっかり専門家任せになってしまい、多くの人たちは生物の世界を見る目を失ってしまった。生物多様性の話は一般の人にとっては退屈なテーマであり、科学者がなんとかすればいい、と思うようになってしまった。大学も行政も、生物の分類等にはお金を出さず、動植物のコレクションはやっかいものとして廃棄されてしまうケースも少なくないのが現状だ。
しかし生物多様性の危機は、一部の専門家だけで到底解決できる問題ではない。私たちはもう一度改めて、『環世界センス』を活かす努力をしなければならないのではないか、私たち自身の自然観にもう一度生命を吹き込むために。『環世界センス』のすべてが否定されたわけではないし、今でも人間にとって自然を知る大切な手がかりには変わりないのだと、著者は投げかける。

これはまさに私たちが抱えている課題と重なる。『環世界センス』を取り戻すこと、森倶楽部21の活動もこの一端を担っているのだと思う。私たちは、自然との生き生きとした関係を取り戻し、構築しようとしているのだ。
私は今年、自然とのどんな関係を紡いできただろうか。どんな橋渡しができただろうか。そして来年はどんなことをやっていきたいのか。改めて考えてみたいと思う年末である。

(『自然を名付ける』キャロル・キサク・ヨーン著、NTT出版、2013年)

以上、初出「NPO森倶楽部21 森に学ぶ」2014