外来種というテーマで

By siki, 2021年5月30日

この春、外来種にまつわる企画をおこなった。

外来種というテーマはとてもたくさんの側面をもっており、私としてはチャレンジングな展示だった…..どこまで何を伝えるのか??…..幾度となく、私はなにを伝えたいのか?ということを自分に問いかけ、その都度確認しながら進んだ。(何枚ものメモ書きが残っている。)

結局、いろんな側面からメッセージを伝える、という形になったのだが、それが結果的には「学んでもらう」ことよりも「考えてもらう」「投げかける」内容となった気がするので、そのことを書いておきたいと思う。

 

外来種、というと一般的には悪いイメージしかない。もちろん外来種が原因で、深刻な状況になっているケースがあることは事実であるし、そのための普及啓発も大切なことだ。ただ問題が複雑なので、いきおい外来種がひとくくりにされ、そのネガティブなイメージが先行して広がっているのも事実だと思う。

だけど、今私たちの暮らしのまわりは、特に植物はすぐ目に入るのでわかりやすいけれど、圧倒的に外来種が多い。一歩外に出て見回せば外来種ばかり、といっても過言ではない。つまり最も身近な自然なのだ。

だから、いったんその「悪者」のイメージを横に置いて、その生態や歴史をみてみようよ、ということを最初に伝えたかった。チラシにはさまざまな動植物たちににぎやかに登場してもらって、「安曇野の外来動植物さんぽ」というタイトルにして、親しみやすさを。

 

さて、

外来種が悪者ばかりではない、という入り口には、オオイヌノフグリやヒメオドリコソウから。説明をすると「えっ、これ外来種だったの?」という反応が多い。かわいらしく春を告げる、ふるさとの風景としてすっかりお馴染みの植物だから。

そこから、ひとつひとつの外来種の背景を知ってみると、持ち込まれ広がった要因には人間の活動が大きく関与していることにびっくりする。今、私たちが便利な生活を送っていることも、現在進行形で広がりを助けていることを知る。

 

その地域の生態系が、長い進化の年月をかけてお互いに影響しあって成り立っていることも伝えたかった。ちょうど安曇野はずいぶん山が松枯れが進み、だれもが身近に感じていることだから、北米からやってきたマツノザイセンチュウのことを、改めてその歴史と生態系の視点からとらえてみる。

 

ニセアカシアなどは本当に外来種の象徴的な植物だなと改めて思った。最初は明治時代に街路樹として持ちこまれた。成長が早いからとさかんに植えられ、一時期は薪炭の資源として人々の暮らしに貢献し、現在はミツバチの蜜源としても必要とされる樹木だ。しかし根が水平に広がり、倒れやすい性質だったことから緑化に不向きであることが後になってわかったし、河川に広がると洪水時に流されて二次被害を及ぼすからと、伐採が進んでいる。

そういう観点で似ているのはヤグルマギク。このブログでも過去に取り上げた「かわいく強い!ヤグルマギク

 

牧草としてより多くの種子をつけて発芽率が高くなるよう改良されたイネ科たちは、そこらじゅうの道端や河川に広がっている。またこれらの牧草は、緑化材としてさかんに道路の法面に吹き付けられてもいる。この早い緑化のおかげで、大雨で土手が崩れずに済んでいるところもあるだろう。

(このような牧草による緑化は、自然度の高いところでは適切ではないためやめるべきだという意見を工事発注者へ出すことにしている。)

 

一方でガビチョウやシマリス、アメリカザリガニといった動物たちに関しては、生態系に深刻な影響を及ぼしているのだが、有効な手立てがなかなか見出せない。駆除には相当な労力が必要になるために見守るしかない状況となっていることが多い。動物はペットを捨てたり意図的に放すなど、人間が無責任に行ったことが原因なのでつらいところなのだが、このなんともいえないつらさを感じることも実は大切なことだと思う。

もう、もとに戻すことはできないのだ。人間は自然に対して大きな影響を及ぼし続けている。そして私たち人間も生態系の一部なのだから、自らも影響を受けている。そのことに思いを巡らした時、自分の心に何らかの感情が生まれることによって、その事実の重さの片鱗を実感できる気がする。

植物にしても、お庭にある間はかわいがってあげるけれど、勝手に出て行って増えたらダメですよ、ということなんだよね、人間はなんて身勝手なんだろう、と思う。ハルジオンやオランダフウロなど、最初に園芸植物として入ったきた植物はとても多い。

 

こんな状況に対して私たちはどう考えたらいいのだろう?

 

たくさんの方がアンケートを書いてくださり、どれもうれしくありがたく読ませていただいた。

「人間に連れて来られたのに、広がったら勝手に悪者にされて、それでも健気に生きてるんだなと思った。」というコメントがあった。まさに、私も同感だ。

まずは生きものたちへ思いを寄せて、そのたくましい生態に驚いたり、おもしろがったりしてみてほしいと思う。 足元から立ち上がってくる自然の世界に、sense of wonder  のまなざしを向けたい。

 

そのうえで、ここをどうやっていく?とその地域に関わる関係者であれこれ話をしていけば、私はきっと進むべき方向が見つかると思っている。

人の暮らしの周りではある程度、外来種を許容し共存していくしかないのだろう。でも自然度の高いところでは可能な限り在来の生態系を保全していく。その目指すべき方向と具体的な方法を関係者で話し合いながら探っていくのだ。

決して誰かひとりの「これが正しい!」という意見ではなくて。だって、これは正解のない課題なのだから。

 

最近聞いて心に残っている言葉がある。

学んだり調べてわかることは、考える必要のないこと。学び調べればいいことだから。だけど正解のない問題こそ、考える価値があることなのだ」と。まさに外来種をどうするのか、ということは考える価値のある課題なのだ。

「学ぶこと、知ること」は新しい世界の扉が開き、わくわくして楽しいことだ。しかし今回ばかりは、私自身が学び調べること以上にとても考えさせられたし、それによって見えてきたことは大きかったと思っている。正解のない問題を考える…その価値に本当に気付かされた。

 

それから最後にもうひとつ。

人間は慣れ親しんだことに変化があることがとても怖い生きものなんだと改めて感じた。外来種で言えば、子どもの頃から親しんだ風景や自然が変化していくことに対する不安、拒絶。

今回のアンケートで「外来種をがんばって駆除しようと思いました。」というコメントも複数見られた。いくら頭では理解しても、あの見慣れない、そして驚異的な繁殖力には恐れを感じるし、なんとかすべき敵だと思えてしまう。

この心理はもう理屈抜きで、おそらく人間の本能的なものなのだろう。そして、それは自分たちの身を守るための大切な機能でもあるのだろう。これはこれで、とても興味深かった。

 

そうだとすると時が経ったとき、今の子どもたちにとって、外来種の植生はなつかしいふるさとの風景になるのかもしれない。